隠岐諸島は大小180ほどの島からなる群島です。
人の住んでいる島は、島前(どうぜん)に3島と、島後(どうご)の4島です。
これ以外の島はすべて無人島です。
「島前」「島後」は、本土側から見て近いほうを島前、少し遠い方を島後と
言います。島前は本土から直線距離で約50km、島後は約65km離れて
います。島後は、ほぼ丸い島で直経で約20km、車で一週すると85km程の
島で2時間程で一周できます。
島後の島の広さ(面積)は、日本の離島(沖縄本島以外)の中で11番目の
広さで、鹿児島県の徳之島とほぼ同じ広さの島です。
また、島後だけだと琵琶湖の約1/3の広さで、島前を入れても半分の大きさです。
(1)佐渡島 (2)奄美大島 (3)対馬島 〜 (6)屋久島(島後の約2倍の島)
〜 (10)徳之島 (11)島後 (12)石垣島
人口は島全体で約1万8千人、島後の島で1万3千人です。
これも、昭和から平成に変わる頃だと約3万人住んでいました。島後は平成2年以降、死亡数が出生数を上回っていて
人口は減り続けています。
昭和30年代だと4万5千人、戦後の20年代だと5万人以上いたそうです。
島後は元々1町3村ありましたが、「平成の大合併」により平成16年10月に合併し、
現在は「隠岐の島町」という1つの町になっています。
隠岐は江戸時代の中頃から明治30年頃まで北前船の寄港地として栄えました。
北前船とは大阪を出て瀬戸内海から日本海を行き来し、買積船と言って、各港で物を売り買いして金儲けをしながら北海道まで往復していた
船の呼び名です。多い年には西郷港だけで年間2千5百隻以上、島全体で4千5百隻もの船が停泊したそうです。上りの船は湾の東側に、
下りの船は湾の西側に停泊したため「上り間」、「下り間」という地名が残っており、船溜まりの溜まり間が訛った「たーま」という地名もあります。
西郷港には百畳の宴会場に百人の芸者さんがいたとか、西郷の商店にはイギリス製のコウモリ傘も売っていたそうです。
小泉八雲が西郷を訪れた際には、境港より西郷は発展していて驚いたことや、食堂に入ると外国人であったため、店主にビフテキが用意でき
ますと言われてビックリしたことなどが紀行文に残されています。八雲の想像を超えるほど西郷は発展していたのです。
大満寺山は隠岐で1番高い山で高さ608mあります。
その他、鷲ヶ峰、葛尾山、時張山など500m級の山々が連なっています。
隠岐の自然は不思議な植生で南方系(ナゴランなど)、北方系(ハマナスなど)、高山性(オオイワカガミなど)、大陸系(ダルマギクなど)などが
共存するとてもおもしろい島です。
北方系のモミの木に南方系のナゴランが着生して自生しているなど不思議な光景が見られます。
また隠岐諸島はユーラシア大陸の一部であった時代から、湖の底の時代、深い海の時代、島根半島と陸続きになった時代を経て、2万年近く前に
現在のような離島となりました。
離島となって比較的若い島なので、他の島と比べて固有種の数はそう多くありませんが、植物の進化の過程を知る上では、とても貴重な島であると
言えます。
この島固有の植物は、オキシャクナゲ、オキノアザミ、オキノアブラギク、オキタンポポの4種類です。
又、野生動物では、天然記念物のオキノウサギやオキサンショウウオなどが棲んでいます。
隠岐の島町の農業は水稲が中心で、畜産、しいたけ、雑穀、野菜が主な作物です。
水稲については約400ヘクタール栽培しており、その内50%を島内で消費し、50%を島外に出荷しています。
最近は自然乾燥のハデ干し米が美味しいと人気がありますが、手間がかかるので生産量が減少しています。
隠岐の特色をいかした「藻塩米」については今では年100トンを越す出荷量になりました。畜産については、島の特性を活かした放牧主体の
飼育方法を取り入れることにより、子牛の時に足腰を鍛えており高い評価をいただいております。
しいたけについては、昭和50年代に県下一位の生産量を誇っていましたが、中国産の輸入増加から価格が低迷し、生産量が減少しました。
しかし、最近の安全安心思考の高まりから、国産しいたけの需要が伸び、価格も上昇してきました。
平成20年の生産量は前年の2.5倍にまで伸びています。
漁業については現在の漁獲高を漁業種別でみると、巻き綱船が70%、カニ、バイ貝等の籠漁業が20%、一本釣りなどその他の漁業が10%と
なっています。当面の課題としては1700名ほどの組合員数のうち、約80%を占める個人漁業者が、資源の減少、魚価の低迷などにより経営が
悪化していること、また、高齢化や後継者不足による組合員の減少が深刻になっています。
公共工事は、平成10年をピークに大激減するまで、過去30年間、この島の経済の主役でした。この公共工事の大激減が島の経済の低迷の主因に
なっています。
林業については戦後良い時期がありましたが、国の無制限な木材輸入策により国産木材価格が長期にわたり低迷し、木材がお金にならなくなりました。
特に隠岐は海上輸送運賃の厳しさも追い討ちをかけました。
又、近年は松くい虫が蔓延しておりますが、隠岐の黒松は杉材の2倍の価格で流通しており、これを失うことは大きな打撃となり、価格の低迷と
同様に、松くい虫の防除についても大変な問題となっております。
ジオパークは科学的にみて重要な、あるいは美しい地質遺産を有する自然公園の一種ですが、地質遺産だけではなく、歴史や文化、
生態系などを含む総合的な公園です。最近では「大地の公園」と略されています。
世界遺産はそこにある指定対象物が主役ですがジオパークは、そこに住む地域住民、および地域活動も含めて先々まで守っていくのが
基本構想です。
現在、世界ジオパークに認定されているのはヨーロッパやアジアを中心に32ヶ国111ヶ所で、国内では8ヶ所(洞爺湖有珠山、糸魚川、
山陰海岸、島原半島、室戸、隠岐、阿蘇、アポイ岳)です。将来的には世界中で250ヶ所程度をめざしています。
2015年9月現在、国内39地域が日本ジオパークに認定されています。
隠岐諸島は2009年に「日本ジオパーク」に認定され、2013年秋には「世界ジオパーク」に認定されました。
この相撲は、江戸時代にはすでに行われていたと伝えられていますが、詳しい起源については不明です。
開催の場所がほとんど神社の境内であったことから「宮相撲」と言ったり、土俵に立てた四本柱を賞品として力士に与えたことから
「柱相撲」とも呼ばれました。
この相撲も、昭和30〜40年代にかけて若者の島外流出等により途絶えておりましたが、昭和40年代後半に名前も「隠岐古典相撲」と
改めて復活させました。
現在では神社の遷宮や校舎新築など地域で大きな祝い事があった時だけ開催されます。
勝負は2番取り、先勝ちした者は2回目には相手に勝ちを譲り1勝1敗と星を分けるのが習わしとなっており、役力士には土俵に立てた
柱を賞品として与えます。